プロフィール

ウエノハラ Pastoral Community (PC) 工房

              代表 谷口 文朗

                              生年月日: 1936年7月14日  

                                   上野原市上野原 1475-1

 

プロフィール:1992年4月、縁あって、東レ経営研究所常務取締役・チーフエコノミストからこの地に新設された西東京(現帝京)科学大学理工学部経営工学科に着任。2007年3月退任。名誉教授。

 『自然科学と社会科学の論理に忠実に X を作り上げて運営するのが工学で、Xが機械の場合は機械工学、Xが経営の場合は経営工学、社会の場合は社会工学』という考え方で、首都圏に最も近い田園都市上野原市のクオリティーオブライフ の向上策を考察し、在任中は帝京科学大学紀要に、退任後は谷口ウエノハラ研究室のブログに発表。2011年4月1日に居住地域200世帯の区長を拝命。その4日後に上野原22地区の区長会会長を拝命。

 最初の1年は前年度の年間行事を踏襲しましたが2年目は周囲の状況の変化に穏やかにしなやかに適応しながら安全安心な生活環境の維持と向上に取り組みはじめました。

 区長を5年間務める間に、行政との関わりなど多くのことを学び、平成28年11月に『理想のふるさと創成とその手法』に関する谷口ウエノハラ研究室最終報告として取りまとめ、市長選挙に立候補を予定されている方々の後援会会長に届けました。

 

 


好きな本:

エトヴィン フィッシャー 『音楽を愛する友へ』

吉田 満 『戦艦大和の最期』

A.S.Hornby 『IDIOMATIC AND SYNTACTIC ENGLISH DICTIONARY』(開拓社新英英大辞典)


好きな言葉:"Circumstances alter cases”(アメリカ海軍大学テキスト『健全な意思決定』より)

 


『学恩』・『社恩』・『地域恩』

インダストリアルエコノミストが受けた学恩・社恩・地域恩とその『総集編としての卒業論文』

 

1.学恩 :「京都大学経済学部は赤の巣だ!」。『なべ底不況』真っ只中の昭和33年10月、田代会長・袖山社長以下全役員が扇状に並ばれた中で単身入社面接に臨んだ私に投げられた人事担当常務からのチャレンジ(an invitation to fight)でした。マルクス経済学の河上 肇と並び称された高田保馬先生の講座を継いで『近代経済学と呼ばれた普通の経済学』を教えられた青山秀夫教授のゼミで、J.R.Hicksの『Value And Capital』とM.Weberの『プロテスタンティズムと資本主義の精神』などの社会学を学んだ私は、抗議の気持ちを込めて強く応戦(respond)。体温37.6℃を記録した直後の身体検査を通過して「英語では卒業を学業の終わりとしてとらえるのではなく、ものごとのはじまりを意味する『commencement』という言葉でとらえている」という袖山社長の入社訓示を受けた最後の社員として4月1日に入社、2ヵ月後に瀬戸内海を船で渡って愛媛工場へ。ちょうど1年後のエイプリルフールの日に工場長から「調査部(Planning Department)調査課へ行ってもらいます」と一言。こうして私の企画調査畑一筋のインダストリアルエコノミストの人生がはじまりました。

 

 昭和35年4月、私を待ち受けていたのは「袖山社長から下命された経済10年見通し作業への参画」でした。時恰も岸内閣で安保騒動の最中。池田内閣の『所得倍増計画』より早く東レは『経済10年見通しという情報要求』を調査部に下命していました。それ以降、人事調査で『営業』を望み続けた私の希望は叶えられませんでした。今にして思えば、私は『経済原論のゼミの出身者』としてドラフトされていたのでした。

 ゼミの同期生19名のうち6人が中央官庁(大蔵省2名・通産省2名・農林省1名・自治省1名)、6人がメーカー、6人が金融・商社・保険、1人が大学院に進路を取る中、私はこうして『開拓者精神』を掲げていた東洋レーヨン(東レ)社員になりました。

 

2.社恩 :東レに入社して私が得た社恩は、ロンドン大学の森嶋通夫先生あるいは帝人の安居祥策会長などなどゼミの名だたる先輩と18名の同僚、あるいは、35年大蔵省へ入省された伊吹文明氏そのほかの後輩の誰よりも『サイエンスの近くにいながら経済を考察できたこと』と思っています。

 

 『水は単体の分子としては存在せず、クラスター状の集合体として存在する』と教わり、多くの異質な事業からなる東レの事業を『破壊に対して最強の構造を持つ正四面体として捉え、ビジネスリスクの態様が全く異なる素材産業と加工組み立て産業と情報産業をそれぞれ青・赤・緑のピンポン球として正四面体の底面に配置し、その上に本社と研究開発機構を白のピンポン球として配置するのが東レの姿』というコンセプトを得たのでした。『素材産業の青と組み立て産業の赤が混じるとウインブルドンの優雅な王室の紫になるのでこの両者はビジネスを戦う集団として峻別されなければならない』という考え方です。ヤマト運輸が物流の小売業進出に当って未だ命脈が残っていた物流の卸売業(商業物流)を収束したことを大学に転じた後で知って、素材産業と加工組み立て産業を同じ器に入れてはならないことを確信した次第です。

 

 『水はHO=C0 H1 OH⇒C1 H3 OH⇒C2 H5 OH⇒・・・⇒CH2n+1OHと展開していくアルコールの原点である。「飲めない時、飲んではならない時に酒席の隅っこで1人ぼっちで水を飲んでいないで『炭素がゼロのアルコール』を堂々と飲んで、愉快に歓談の輪に入りなさい」と大学に転じてから学生諸君に冗談のような生真面目な話が出来たのもサイエンスの間近にいた経済学徒だから出来たことだと思っています。

 この考えを2010年2月に特許庁に商標出願しましたら、1発で商標第5368668号になり、この世に生きた証を残すことが出来ました。『C0 H1 OH = HOという缶ビール(?)』を仲間と愉快に飲みたいと希っています。

 

 『宗教の因数分解もサイエンスの近くにいたからこそ得られたコンセプト』と思っています。『両親を敬え』、『偽りの証を立てるな』、『生きていると思うな、生かされていると思え』、『命を大切にせよ』などなど世界宗教に共通している要素を因数に見立てて括り出し、括りだされた部分を『太陽光線のような光とエネルギーに満ちた道徳としての日本教』と定義して、『プライベートな家庭から玄関というプリズムを通って1歩でもオフィシャルな社会に出たら日本教、オフィシャルな社会から戻って玄関というプリズムを通って1歩でもプライベートな家庭に入ったら虹の七色のひとつに見立てた宗教のある生活』という感覚で道徳と宗教を捉え、かけがえのない生を活きるというのが『宗教の因数分解のコンセプト』です。

 

 ひとつ心残りがあります。東レ経営研究所スタート直後に『ECONOMIC LETTER』のエディターを務める傍ら書き留めた『WORLD TECHNO TREND』の編集後記に『エレクトロニクスの90%はケミストリー』という考え方を紹介したことを憶えているのですが、この観点をもっともっと早く私の経済レポートの中で反復連打すべきだったということです。

 

3.地域恩 :東レ経営研究所の設立発起人に名を連ね、森本初代社長の統率の下、そのテイクオフに明け暮れていた55歳の時、「山梨県上野原町(現在は人口27000の上野原市)に21世紀をリードするコンピューター・バイオ・新素材に経営工学を配した大学が出来る。経済・産業・企業という名を冠した講義は産業人にやってもらう」という齋藤進六初代学長の方針が東レのトップを経由して私に伝えられて、開拓者精神に誘われて密かに森本さんに「大学に移りたい」との希望を伝えました。この時は幸いにも希望を聞き入れてもらうことが出来、シートベルトを外せるぎりぎりのタイミングでしたが、1992年4月にTBRのテイクオフを確信して、西東京(現帝京)科学大学経営工学科に着任しました。

 

 大学では15年間に137名のゼミ生を社会に送り出しましたが、この間、アメリカ海軍大学テキストに学ぶ組織と人、産業構造論、サービス産業論、企業環境論、コンセプトエンジニアリング、卒業研究指導などなど、充実した15年の歳月を送ることが出来ました。

 

 15年の勤務の10年が経過した時、この地で採取された杉・檜が香るペンション風の小さな住まいを地元の大工さんに作ってもらって、東レ発祥の地である大津市膳所の故郷をここ上野原市に読み替えて、首都圏に一番近いこの田園都市のクオリティーオブライフの向上策を研究、帝京科学大学紀要やインターネットの谷口研究室のブログに投稿しました。

 

 70歳で大学の勤務を終えた時に『谷口ウエノハラ研究室』を開設し、初志を保っているところですが、2011年4月、思いがけずに200世帯の新町三丁目の区長(自治組織の会長兼行政の事務嘱託員)を仰せつかって、ご近所から頂く採れたて野菜をバリバリ食しながらマイネフラウとウエスティーと6匹の猫たちと暮らしながら『自然科学と社会科学の因果関係に忠実に X を作り上げて運営するのが工学で、Xが機械の場合は機械工学、経営の場合は経営工学、社会の場合は社会工学』という考え方に立って『社会工学』に取り組んでいます。

 

4.インダストリアルエコノミストの卒業論文 :産業に軸足を置いて経済・社会のチャレンジ&レスポンスの動向を分析し、そこに潜むチャンスと落とし穴を報告し続けて来たインダストリアルエコノミストとして、私の最大の学びは『合成繊維の世界生産は1940年の5000トンから1973年の751万トンへ、33年間に1年たりとも減産になることなく1500倍に増加した』事実です。この間の年平均成長率は実に24.8%、『3~4年ごとの倍増ゲームが33年間も続いたこと』です。こんな製品は2度と宇宙船地球号に現れないのではないでしょうか。私たちの世代はこの歴史の生き証人なのだと思っています!

 

 経済は分母にグッズ・サービス・インフォメーションを、分子にマネーを配した分数で構成されています。ミレーが描いた絵画の世界は『金本位制度』の時代で、分母のすべてがナチュラルで、分子のマネーもナチュラルのゴールドでした。金本位制度は100年も続きましたが、分母の世界で科学技術が発展し、分母が合成繊維に見るように驚異的に増加したにもかかわらず分子が如何なる錬金術をも峻拒したゴールドでしたから、分子と分母のバランスが崩れ、分数の値が小さくなる、すなわち、『科学技術が進歩し、人類が豊かになる筈なのだが物価水準が下落してデフレが進行、1930年代の世界不況を経て世界は第2次世界大戦に突入した』のでした。インダストリアルエコノミストの目には『金本位制度が大不況と戦争の原因』と映っています。 

 

 分母がマンメイドになったなら分子もマンメイドにならなければ経済は保たれません。第2次大戦後のIMF体制は、分子のドルだけが金と交換される“quasi-man made”(半分マンメイド)マネーに移行した金為替本位制度、ニクソンショックはゴールドの呪縛から解き放たれるマンメイドマネー時代の幕開け、1987年にアメリカの株価が1日に25%も下落したブラックマンデー以降はマンメイドマネーの論理が経済を支配した時代、リーマンショックの時にはマンメイドマネーの故に世界が100年に1度の世界不況から救われ、世界平和が保たれている時代というのがインダストリアルエコノミストの歴史観なのです。

 

  問題は“No man made money has ever survived in human history.という歴史事実があることです。『マンメイドマネーでないと世界の経済システムは保てないが、マンメイドマネーはすべて紙くずとなったという人類の歴史のジレンマ』にどのように向き合うべきなのか。『マンメイドプロダクツについてはMade in JapanからConceived, Designed & Developed in Japan And Made in the World、ナチュラルプロダクツについては Raised & Harvested in Japan And Export 

to the Worldに日本の進路を変える』というのがインダストリアルエコノミストとしての私のマクロ経済・経営論の卒業論文です。お読み頂ける方はこのブログでご覧下さい。

 

 阪神淡路大震災と東日本大震災の発生時刻が真逆にならなかったことに日本への神・佛の加護を読み取りつつ擱筆。           2012-2-26  2017-11-25加筆補正

         〒409-0112 上野原市上野原1475-1   谷口文朗  

 

『MADE IN AMERICA』 の翻訳に思う

(1)“To live well, a nation must produce well.”  MITポール グレイ 総長のリーダーシップの下、MITの碩学を動員して「なぜアメリカの産業がかくも弱くなってしまったのか」を問い、その原因を追求した『MADE IN AMERICA』は、英語を習いはじめたときに出てくる単語ばかりで綴られたこの短い文章ではじまっていた。この冒頭の一文は「一国の繁栄はその國の生産力にかかっている」という訳文を与えられて、1999年4月、東京駅近辺の八重洲ブックセンターや丸善の店頭に山積みされてわが国にデビューした。 翻訳に参加した私に10冊の献本枠が出版社から与えられた。最初の1冊は新入生のための経済学の授業で4人の教授がそろいも揃ってソ連の『経済学教科書』に沿って経済学を教えたマルクス経済学のメッカ京都大学経済学部で孤塁を守って近代経済学を教えられた恩師の青山秀夫名誉教授に、2冊目と3冊目は高校時代に机を並べた京都大学 長尾 真 教授(その後1997~2003年にかけて総長)と19人のゼミ仲間でただ1人大学に残って後に名古屋大学で経済学部長を勤めた 真継 隆 教授、4冊目は兄貴経由でその昔慶応義塾大学理財部で経済学を学んだわがおやじの墓前に献本した。 間もなく青山先生から私宛にお礼を述べた絵葉書が届いた。2日後に青山先生から東レ経営研究所御中として広島美術館蔵のゴッホの『ドービニーの庭』の絵葉書が届いた。そこには「立派な書物の立派な訳をおつくり頂いたことを深謝するとともに、米国側の事態認識のための真剣な努力に対する日本側の認識の進展を切望しています。御礼まで」と記されていた。この絵葉書は翻訳に用いた原書に貼り付けて、今も大切に保存している。

 

(2)1989年の残暑厳しい頃であった。東レ経営研究所(TBR)森本社長に呼ばれた。「依田専務がMIT PRESSから出版されたばかりの『MADE IN AMERICA』の翻訳・出版に当たることになった。TBRとしてバックアップする。ついては依田専務の翻訳の内容を詳細にチェックするように」と下命された。3名の著者のひとりにノーベル経済学賞を受けたローバートM.ソロー教授の名前が出ているこのような書物の翻訳の仕事を取ってくる依田さんの力量に驚くと同時に“industrial performance”という新しい言葉の背後にどのような理論が構築されたのかとわくわくしたことが思い出される。 「出版は早春の予定」ということであった。急遽私が1章から13章を、古宮君(後にTBR常務)が産業分析編を分担して「内容の詳細チェック」に取りかかった。ようやくノート型のワープロが出はじめた頃であった。朝目覚めてから朝食までの間、通勤電車で坐れた時は電車の中で、職場から帰宅して食事を済ませるとすぐにワープロに向かって、「内容の詳細チェック」に没頭した。 「一国の繁栄はその國の生産力にかかっている」という冒頭の訳文は実に見事であったが訳文には依田さんの面目が躍動していた。英語も日本語も語順に従って意味合いを相手に伝えて行く点は全く変らないのだが、厄介なことに、英語と日本語では述語の位置がまったく違う。翻訳、とくに通訳、なかでも同時通訳の場合は、長い英文の中で主語につづいて述語が出て、その後に長く綴られた目的語などをフォローし終わって、最後に述語で日本語訳をしめくくるころには次の英文が相当先まで進んでいて、通訳できなくなってしまうことになる。そこで訳者は鍛えられた直観を頼りに、文脈を想定しつつ長い英文を前から順番に区切って訳して行くことになるのだが、依田さんの翻訳は、この「鍛えられた直観を頼りに、文脈を想定しつつ長い文章を前から順番に区切って訳して行く」というスタイルで作成されていた。 

MITの碩学が真剣に世に伝えようとした『MADE IN AMERICA』の内容は時間と空間を越えた「重いメッセージ」を含んでいた。当然のことながらその翻訳は時間に追われることなく、十分に時間をかけて、「英語の語順に従って緻密に伝えられる重要な内容を頭の中で明確に把握し、その内容を日本語の語順に従って忠実に伝えて行く」ことが必要とされた。かくして「内容の詳細チェック」は、時間に追われながら「直観を頼りに、文脈を想定しつつ前から訳して行く」という依田スタイルを語順に忠実に翻訳するスタイルに引き戻す作業に終始することになった。

翻訳された『MADE IN AMERICA』は1990年3月に草思社から『Made in America』として出版され、産業界で広く読まれただけでなく多くの大学で教科書として用いられた。「内容の詳細チェック」には多大な時間と労力を必要としたが、東レ経営研究所の訳文はMITが発しようとしたメッセージを十分に伝え得たと自負している。古本屋で『Made in America』にめったに出会わないのは本書が今も多くの人々の蔵書の中にしっかりとした位置を与えられているからなのであろう。

 

(3)「内容の詳細チェック」を終えた時、私はこの名著の前半の総論部分を日本の誰よりも原書で深く読んだと確信した。私が読み取ったポイントは、本書の冒頭の一文で「国の豊かさの根源は生産活動にある」という認識を示したあとに、生産活動について、“Our main focus was the nations production system : the organizations, the plant, the equipment, and the people, from factory workers to senior executives, that combine to conceive, design, develop, produce, market, deliver goods and services to the customer.”という認識を示して、「生産システムは生産の機能だけではなく、アイディアを着想する機能、プロトタイプを作成するデザインの機能、量産スペックを確立する開発の機能、製品販売の機能、製品デリバリーの機能という6つの機能を併せ持つ」という広い観点を打ち出していたこと(原書3ページ)であり、つづいて原書33ページで“Competitiveness may hinge on the speed at which new concepts are converted into manufacturable products and brought to market, on the flexibility with which the firm can shift from one product line to another in response to changing market conditions, or on the time it takes to deliver a product after the customer places an order. ”と述べて「企業の競争力は新しいコンセプトが製品としての形を与えられ、市場に導入されるスピードによって決まる」という認識を示していた点である。

 

(4)この認識は私を勇気づけた。というのは、私は東レ企画部に在籍当時、√concept×√technology=merchandize という考え方をレポートに書いて社内に広くかつ深く報告していたからである。そして、1992年に西東京(現帝京)科学大学経営工学科(現マネジメントシステム学科)に移ってから「コンセプトエンジニアリング」という講義を立ち上げた。その中心課題は、わが国の繁栄を生み出した自動車・テレビ・合成繊維などほとんどすべての工業製品は「conceived in western countries & produced in Japan」であったが、21世紀に向かって①世界平和、②自由貿易、③ドル基軸通貨体制が保たれる中、この図式に従って第1のウォークマン・第2のウォークマン・・・第nのウォークマンが続々と生まれてくる仕組みが産業と企業に仕組まれつづけることが「無資源国 日本」の命運を決めるという認識に立って「無から有(=新製品・新サービス)を生み出すプロセス」に作用する要素を定式化することであった。

 

(5)2002年5月、依田さんから大学に封書が届いた。香港が中国に返還された1997年に「『MADE IN AMERICA』の調査チームがOxford Pressから『Made by Hong Kong』を出版した。翻訳に参加しないか」という誘いが述べられていた。『MADE IN AMERICA』の取りまとめに大きな役割を果たした国際政治学のSuzanne Berger教授と原子核理論のRichard K. Lester教授の名が表紙に記されていた。その内容は『MADE IN AMERICA』同様「重いメッセージ」を含んでいた。私は依田さんからの誘いを躊躇なく受けた。

「東レはあれだけの資本を香港に投入しているのだが、本社に中国語に精通しているスタッフがどれだけいるのか」と東レは欧米人から問われていた。『Made by Hong Kong』のプロジェクトチームの名前を見たとき「現地調査のためにこれだけの中国系研究スタッフをそろえているのはさすがにMITである。日本では不可能」と直観した。内容は、事実に基づいた分析に終始し、表現は実に緻密で周到であった。それだけに翻訳作業は楽ではなく、孤軍奮闘が続いた。『Made by Hong Kong』は日刊工業新聞社から2003年3月末に出版され、書店の店頭に並んだのだが、翻訳作業への参加の誘いをもっと早く受けていたらというのが偽りのない印象であった。出版後しばらくして八重洲ブックセンターを訪れたが、中国関係書籍のコーナーに1冊並んでいるのを見ただけであった。原書出版から5年の歳月が経過していたのである。

 

(6)『MADE IN AMERICA』には決して忘れてはいけないメッセージがある。それは原書9ページに“A vision of new industrial America, a nation equipped to exploit the best ideas and innovation from abroad as well as its own inherent strengths.”と述べていたことである。この一文は「地球上の最高のアイディアとイノベーションに関して、私のものは私のもの、あなたのものも私のもの」と言っているようなものである。北米進出に尻込みしていたトヨタをしてジャストインタイム方式を持ち込ませたのがアメリカであり、野茂選手・イチロー選手・松井選手を持って行ってしまったのがアメリカなのである。なぜこのようなことが可能なのか。TBRのチーフエコノミストを務めた目から見ると「ドル基軸通貨体制がその理由」なのであるが、『MADE IN AMERICA』はこの点について、原書143ページでわずかにドイツでは“Exportieren oder Sterben!”(輸出かさもなければ死か)であったのに対し、アメリカでは“Export or see your relative standard of living diminish”(輸出かさもなければ貿易赤字⇒ドル安⇒輸入品価格の上昇をとおしてアメリカの生活水準が相対的に低下する)と述べるにとどまっているのである。ドル本位制度についてこれだけしか意識していないところがアメリカのアメリカたる所以である。アメリカを“nation state”と見てはいけない。アメリカは“mini‐world”である。アメリカのe‐mailアドレスには国名がついていないのである。

 

(7)最後に今にして思うことをひとつ述べたい。それは原書154ページで「“information infrastructure”を国全体に構築すべし」と記されていたことである。この時点で今のインターネットを想定していたかどうかは定かでないが、1998年春に今の職場で「TUST Newsletter」の編集責任者を仰せつかった時に、印刷所への入稿に当たり「原稿は電子媒体渡し、文字化けは印刷所責任、文字校正なし、校正は色校正のみ」という方式を採用したのだが、それによっていかに生産性が上昇するかを実感した。『MADE IN AMERICA』の出版後、アメリカの生産性は向上した。その背後で相変わらず輸入超過がつづき、ドルの垂れ流しがつづいている。だが、ドルの垂れ流しが止まり、ドルがアメリカに還流しはじめたら世界がたちまち不況になることを私たちは1997年夏、香港の中国への返還に照準を合わせて『Made by Hong Kong』の原書が出版された時に体験したのである。人類史上紙幣はすべて紙くずになっている。ドルという紙幣の価値を担保するのは貿易黒字ではなく、コンピューターが生み出す社会全体の生産性向上、さらに言えば社会体制そのものであり、この観点から『September 11th』へのアメリカの国防のための対応が評価されなければならないことに思いを馳せるこの頃である。                                                            以上TN