インダストリアル エコノミストの『卒業論文』-経済は分子がマネー、分母がグッヅ・サービス・インフォメーションで構成されている分数という観点

震災後の日本の進路は『触媒国家』

 

       今こそ日本の進路を問う- 21世紀の日本の進路は『触媒国家』

          『From “Made in Japan” to “CDD & RH in Japan” 

            to Live A Catalyst STATE in The Planet Earth』* 

 

 〔*CDD は“Conceive, Design & Develop”の頭文字、RHは“Raise & Harvest”の頭文字〕

 

1.日本への3つのチャレンジと『触媒国家日本』の進路 

 2011年3月11日に日本を襲った1000年に1度の大地震と津波は日本の国と私たちへの第3のチャレンジでした。ペーパーマネーである米ドルを基軸通貨として生きなければならないにもかかわらず日本は『人類の歴史はペーパーマネーをことごとく紙屑化して来た』というチャレンジと『地球温暖化』というチャレンジに直面して来ましたが、その上に第3のチャレンジに直面しました。私たちはこの3つのチャレンジに成功裏にレスポンドしなければなりません。

 

  3つのチャレンジのうちで最大かつ喫緊のチャレンジは『人類の歴史はペーパーマネーをことごとく紙屑化して来た』というチャレンジです。この最大のチャレンジに成功裏にレスポンドする方途を国の進路と定め、嘗ての所得倍増計画のような国民的スローガンとすることによって経済を新たな成長軌道に乗せ、3つのチャレンジに立ち向かうことを呼びかけます。

 

  その過程で開けて来るのは『触媒国家』という国の形で、そのキーコンセプトは、2つの大陸国家、すなわち、『太平洋(Pacific Ocean:平和の海)の東方に位置する基軸通貨国アメリカと太平洋の西方に位置する最大の人口と2兆ドルの外貨準備を擁する中国の間にあって、1兆ドルの外貨準備を保有する日本が両国の経済発展に貢献しつつ、日本の国のアイデンティティーを保ち続けること』であります。成功の鍵は、国際通貨制度200年の歴史と四季に恵まれたこの国の風土と私たちの感性から生まれた類まれな受容性と適応性の中にあります。

 

 

2.ペーパーマネー紙屑化の歴史的チャレンジへのレスポンス 

2-1 『分子も天然』・『分母も天然』の金本位制度の時代 

 甲府市の山梨県立美術館には『晩鐘』などミレーの油彩画が10点所蔵されています。有名な『晩鐘』に描かれているのはすべてナチュラルプロダクツで、科学技術が作り出した合成繊維やプラスチックは皆無です。1814年に誕生し、1875年に没したミレーの時代は金本位制度の時代でした。

経済は、私たちが支払う『お金』(マネー=M)を分子に、私たちが必要とする『もの』(Goods=G)と『サービス』(Services=S)と『情報』(Information=I)(以下GSIと略称)を分母とした分数で構成されており、その値は『経済全体の物価水準』を表しています。

 

 ミレーの時代は、分子は天然のゴールド、分母もナチュラルプロダクツの時代でした。分子は金貨または金と交換される紙幣、分母は繊維で言えばコットン・ウール・シルクの天然繊維という時代でした。この制度は100年も続きました。ゴールドだけがお金として信用されたのは、ゴールドの希少性、化学変化しない物性、『贋金作り』を峻拒する特性のためでした。

金本位制度はミレーが生まれた2年後の1816年に英国で誕生し、第1次世界大戦がはじまった1914年まで続きました。英国ではじまり、世界中に広がった金本位制度の下では、誰でも、何時でも、自国の金貨を外国の金貨と自由に交換出来ただけでなく、一定のコストを負担して政府に頼めば、金貨を金の延べ棒に戻す、あるいは、逆に延べ棒から金貨を鋳造して貰うことが出来ました。

わが国でも徳川時代に金の小判が通貨となっていましたが、このようなことは一切許されなかったばかりでなく、1695年に突然1枚の慶長小判(純度 863/1000 の金 4匁 7分 6厘)から2.7枚の元禄小判(純度 564/1000 の金 2匁 6分 8厘)を鋳造し、慶長小判を使えなくしてしまいました。徳川幕府は『公権力による贋金作り』を行い、慶長小判を持っていた人々の財産を召し上げて財政を補ったのです。自由市場経済の英国では起こり得ないことでした。

 

2-2 科学技術の進歩によって経済の分母でマンメイドの工業製品が急増 

金本位制度が続いていた時代に科学技術が進歩し、陸上輸送と海上輸送に蒸気機関が応用されたり、ディーゼルエンジンが発明されたり、発電機発明後の偶然の機会にモーターが開発されたり、ドイツで化学工業が興って化学肥料が作られたり、電信・電話技術が生まれるなど、欧州で工場制近代工業が誕生しました。

 

 このことは経済の分数の分母が急速に拡大し、経済が成長して人々の生活が豊かになることを意味しましたが、経済の分数のマネーがゴールドであったために分母と同じスピードで拡大しようにも拡大出来ませんでした。ここから、経済の分数の値が小さくなる傾向、すなわち、物価が下落し、経済がデフレに陥る傾向が生まれました。この間、分母の側で、量産効果や新技術の開発によるコストの低下、あるいは、分子の側で、金鉱の発見による一時的なマネーの増加やお金が使われるスピードの向上、銀行による信用創造によって分子の値が大きくなり、デフレの傾向が緩和されることがありましたが、デフレの問題は根本的に解決されることなく、大小さまざまな好況と不況が繰り返される中、1929年のニューヨーク株式の大暴落に向けて経済システムの中に歪みが蓄積され、『戦争の世紀』とまで言われた20世紀の歴史が展開して行きました。

 

 問題は、小麦やぶどうなどの天然産品の貿易と並んで自動車など工業製品の貿易が増えたことです。自動車を輸入し、小麦やぶどうを輸出する国はどうしても貿易が赤字になります。この赤字は結局のところ借金で辻褄が合わされたのですが、借金が国の独立を脅かすまでに大きくなることは主権国家として許されませんでしたから、為替切り下げ競争や関税引き上げや保護貿易が行われ、第2次世界大戦へと歴史が動いて行きました。

 

2-3 金本位制度から金為替本位制度へ 

 第2次世界大戦の帰趨が明らかになり、戦後の世界経済のあり方が問われた時、経済の分子に“quasi-man made”(半分マンメイド)マネーが導入されました。天然のグッズだけで構成されていた経済の分母にマンメイドの工業製品が加わり、さらに、交通・通信や教育・文化・スポーツ活動などのサービスが加わっているという経済の現実に対応して分子を大きくするためでした。

『半分マンメイドのマネー』というのは『アメリカ政府は、国際通貨基金(IMF)加盟国政府から要請を受けた場合に限って、35米ドルを1トロイオンスのゴールドと交換するという形で米ドルをゴールドにリンクさせ、英国ポンドは1ポンド=2.8米ドル=1,008円、日本円は1米ドル=360円、西独マルクは1マルク=0.25米ドル=90円という形で、各国の通貨が米ドルを経由してゴールドとリンクする金為替本位制度』でした。『時代を問わず、洋の東西を問わず人類を縛り付けてきたゴールドへの呪縛』から逃れる長い道程のはじまりでした。

 

 IMFの制度は金本位制度と対比して金為替本位制度と呼ばれましたが、そのキーコンセプトは各国通貨の為替相場を米ドルに対して±0.5%の範囲で固定し、為替切り下げ競争による近隣窮乏化政策の轍を2度と踏まないということでした。

 

 『半分マンメイドのマネー』が『ゴールドとリンクしないマンメイドマネー』になって行く経過を概観する前に、当時のイノベーションの最先端に位置した高分子化学が生み出したマンメイドファイバーの増加テンポが如何に大きく、持続的であったかを例示します。

 

2-4 繊維の世界に垣間見る経済の分母の拡大テンポ 

 ウール、コットン、シルクが繊維素材であったミレーの世界に科学技術が最初に付け加えた繊維素材は1892年に英国で特許が成立したレーヨンでした。レーヨンは木材に含まれている繊維素を一旦濃硫酸に溶解し、粘度の高い溶液を苛性ソーダ溶液の中で紡糸する技術でしたが、繊維の基は天然の木材という意味で再生繊維と呼ばれました。真の意味の人造繊維あるいは合成繊維は1935年に米国で特許が成立した『石炭と水と空気から創り出されたナイロン』でした。その後、1940年代にはポリエステル繊維、ポリアクリル繊維、ポリプロピレン繊維が次々と生み出されました。

 

 合成繊維の世界の生産量がはじめて統計に掲出されたのは1940年で、その量は5000トンでしたが、その世界生産は33年後の1973年に751万トンに達しました。この33年間に生産は1年たりとも減産になることなく、1500倍に増加したのです。33年間の年平均成長率は実に24.8%、『3~4年ごとの倍増ゲーム』が33年間も続いたのであります。合成繊維の生産は、石油価格が1バレル2ドルから10ドルに急騰した1973年の世界同時不況の際にはじめて減産となりましたが、その後は再び一貫して増勢を辿り、1973年から2005年までの32年間に生産量はさらに4.2倍に増加、この間の年平均成長率は4.6%でした。合成繊維の驚異的増産を可能ならしめたのは分子が“quasi-man made”に移行した金為替本位制度の下であったのです。

 

2-5 ニクソンショックがマンメイドマネーへの序章 

 第2次世界大戦直後、米ドルはかつてのゴールドのような希少性をもっていました。世界のゴールドが一方的に米国に集中していただけでなく、欧州と日本の工業生産力は見る影もなく破壊されていたからです。米ドルはかつてのゴールドのような役割を果たしていましたから、米国からのドルの流出は金本位制度の下での金鉱発見と同じ効果を持っていました。米国からのドルの流出は、貿易収支の赤字、米国からの海外投資の増大、米国人の海外旅行だけではなく朝鮮戦争やベトナム戦争によっても引き起こされました。

 

 アメリカからのドル流出の過程で、1960年代後半に入ると、1967年には英ポンドの切り下げ、1969年には仏フランの切り下げと西独マルクの切り上げが行われる一方で、海外におけるドル保有高が増加し、各国政府のドル保有に見合うアメリカの金保有高が不足し、為替市場閉鎖を伴う通貨不安が頻発しました。

 

 この間、主要国は協議を重ね、IMFは1968年7月にSDRという帳簿上の国際通貨を創設し、1970年1月に34.1億SDR(1SDR=1ドル)、2009年9月末に2,041億SDR(3,140億ドル、1SDR=1.6ドル)が発行されましたが、各国の通貨の価値を量る尺度の役割は果たせているものの、決済通貨あるいは準備通貨としての役割は全く果たせませんでした。 

 

 1971年8月15日のことでした。ニクソン米国大統領は、英国からの金交換の要求に応えないまま、米ドルの金交換を停止し、米ドルは同年12月に金 1トロイオンス=35ドルから38ドルへ16.88%切り下げられました。円との関係では1米ドル=308円±2.25%へ14.5%の切り下げとなりました。戦後のわが国では1ドル=360円の円レートはユークリッド幾何学における円の中心角のごとく不変と意識されていましたので、ニクソン声明は晴天の霹靂でした。

 

 世界の経済は、その後紆余曲折を経て、1973年 2月に変動相場制に移行しましたが、変動相場制はドルとゴールドのリンクを断ち切ったという意味において、グッズはマンメイド、マネーもマンメイドの世界への序章でした。

 

2-6 固定相場は輸出促進型・変動相場は海外投資促進型 

 グッズもマンメイド、マネーもマンメイドの世界について概観する前に、1971年8月から1973年 2月までの1年半の間に生じた2つの重要な事実について敷衍します。

 

 第1は、固定相場制度から変動相場制度への移行は『企業経営にとって海外活動のルールの変更』という意味があったことです。1ドル=360円の固定為替相場制度の下では、自動車産業に典型的に見られたごとく、輸出による量産効果でコストが低下して利益が増加すると、利益の増分がそのまま輸出企業の手元に残るという意味で『国内投資と輸出を促進する国際金融制度』でありました。これに対し、変動相場制度の下では、量産効果でコストが低下し、国際競争力が高まるとその分円レートが上昇し、輸出の利益が失われる代わりに、海外投資と海外生産のコストが円レートの上昇分だけ低下しましたので変動相場制度は『企業の海外投資と海外生産を促進する国際金融制度』でありました。

 

2-7 シカゴの商品相場へのドルの上場:投機によるドル価値の決定 

 第2は、1972年1月にシカゴのマーカンタイルエクスチェンジに世界の7ヵ国の通貨の先物が上場されたことです。1968年に創設されたSDRは主要5ヵ国の通貨の価値をそれぞれの国の貿易額で加重平均した値で、横の時間軸の中で示されている5ヵ国の通貨の価値によってSDRと米ドルの価値を決める仕組でしたが、世界の7ヵ国の通貨が商品と並んで先物取引市場に上場されたことは、縦の時間軸の中で行われる投機によって通貨の価値を決めようというイノベーションでした。わずかに10ページほどの小論でしたが、ミルトンフリードマン教授が1971年12月20日に“THE NEED FOR FUTURES MARKETS IN CURRENCIES”を著したことは特筆されることでした。今日、為替の先物取引が一般投資家の間に広がっています。

 

2-8 マンメイドマネー時代の幕開け 

 本格的マンメイドマネーの時代は1985年9月のプラザ合意で幕を開けました。1985年に1ドル=240円を超える水準まで上昇した米ドルが主要国の協調介入によって1988年に1ドル=120円に下落しました。プラザ合意は、米国と世界の経済のバランスを保つ上で有効でしたが、『為替相場は需給関係で決まるという変動相場制度の根本理念の変質』、端的に言えば『ドル基軸通貨体制』、さらに言えば『印刷されたマンメイドマネー体制』が認知され、始動しはじめたことを意味していました。

 

2-9 マンメイドマネーによる米国経済の救済 

 そこに至る過程の1987年10月19日にニューヨーク株式市場のダウ平均株価が1日で2,246ドルから1,738ドルへ、508ドル、率にして22.6%も大暴落しました。この時の株価の下げ幅は1929年10月29日の暗黒の木曜日の下げ率11.7%を越えていました。この時、ニューヨークタイムスは、“Seeking Stronger Safety Net for Nation's Financial System”と題して、①銀行の融資削減が長期化したならば金融機構はチェルノブイリ原発のようにメルトダウンしていたであろう、②絶体絶命のピンチに陥った株式市場からの資金需要は政府の特例措置によってファイナンスされたが、その背後で、ニューヨーク連銀が市中銀行に対する資金供給を増額する見返りに市中銀行が証券業者に必要な資金を融資するよう強く要請した、③シティーバンクのリード会長は、談話で、「ニューヨーク連銀のコリガン理事長からの電話を受けた後、自行の証券業者への融資は通常の2~4億ドルの水準から10月20日には14億ドルに急増した」と語った、④この非常の救済措置は所期の効果を発揮した、⑤この措置の恒久化が検討されていると報じました(The New York Times Dec.14 1987, D6)。証券市場が必要とする資金の全額を中央銀行が供給したのです。通貨が天然のゴールドではなく、印刷可能なマンメイドマネーであったから可能な救済策でした。

 

2-10 マンメイドマネーによる世界経済の救済 

 2008年9月にはリーマンブラザーズの破綻による世界同時株安が発生し、100年に1度という世界不況の到来が懸念されました。アメリカのFRB議長が『100年に1度の不況』と言いましたので、世界中が1930年代の世界不況を連想し、事態を深刻に受け止めたのでしたが、株式市場はアメリカだけでなく欧州と日本の中央銀行から無制限の資金の供給を受け、1年後の2009年秋には世界景気の底入れが確認されました。

 

 

3.日本のレスポンス-2つの方途- 

 『人類の歴史はペーパーマネーをことごとく紙屑化して来たというチャレンジ』は国際通貨制度200年の歴史の帰結であり、今も続いていますが、私たちは『ペーパーマネーの紙屑化による経済の混乱』に身を委ねることは出来ません。

 

 現在、信用の根源が人間の恣意を峻拒したゴールドの物性から軍事力を含めて『宇宙船地球号=Planet Earth』の経済・社会システムを破壊から守る能力に移行していますので、日本にとって現実の問題は、米ドルを基軸通貨として受容し、基軸通貨としての米ドルを支える役割を果たすことであります。

 

 わが国は、日本自身とその周辺地域の経済・社会システムを破壊から守る能力を国民の総意に基づいて日米安保条約による米国との同盟関係の中に構築していますので、基軸通貨として米ドルを信認するのが『適切=suitable』で、円の役割は、米ドルに代替することではなく米ドルと共生することによって『ペーパーマネーの紙屑化という歴史的チャレンジにレスポンドすること』であります。

 その方途は、①『米国のGDPデフレーターをターゲットとした経済政策』と②『マンメイドプロダクツについてはMade in JapanからCDD in Japan & Made in the World』、『ナチュラルプロダクツについてはMade in Japanから RH in Japan & Export to the World』を国の進路と定め、これを嘗ての所得倍増計画のような国民的スローガンとして、基軸通貨獲得のための企業活動の軸足を移し、経済を新たな成長軌道に乗せることであります。

 

3-1 米国のGDPデフレーターをターゲットとした経済政策 

 わが国だけがゴールドの呪縛に囚われたまま、わが国のGDPデフレーターを前年比±ゼロになるように政策を運用すると対米ドル為替レートが上昇し、変動相場制度の下でわが国の産業空洞化が加速されます。わが国にとって可能かつ適切な選択は『同じ物価水準の下で毎年同じ生活を繰り返すのではなく、GDPデフレーターの上昇分だけ生活コストは上昇するが収入も上昇し、物価上昇を相殺した実質的生活水準は前年と変わらない中で、インターネットや地デジなどの技術進歩を生活に取り入れる新陳代謝を行う余地を生み出すこと』であります。

 

 一国の通貨を基軸通貨として信認し、一国のデフレーターを政策のターゲットとすることへの心情的反発が想定されますが、それを言う前に、私たちは、1997年に香港が中国に返還された時に米ドルがアジア地域から流出し、東南アジア地域の通貨不安と経済の停滞がすぐさま表面化したことを想起すべきであります。

 

3-2 『CDD in Japan & Made in the World』 

 私たちは経済の分母のGSIに次々と加えられる新しいグッズとサービスと情報に価値を認めてマネーを支払っています。200年前は分子も分母もナチュラルの経済でしたが、その後、経済の分母に加えられた新しいグッズ、新しいサービス、新しい情報はすべて『CDD』という過程、すなわち、『Conceive』・『Design』・『Developという3つの過程を経て生まれています。

 

 『Conceiveとは新しいGSIのコンセプトを頭の中に描くこと』、『Designとはテクノロジーを掛け合わせることによってコンセプトに形を与え、コンセプトを体現したプロトタイプを作ること』、『Developとはプロトタイプに 巧みの技 を加えてマーケットに供給する量産スペックを確定することです。

この3つの段階の次に『Produce・『Market』・『Deliver』という段階が続き、経済活動のサイクルが循環して行くのですが、『Made in Japan』がConceive・Design・Develop・Produceまでの4段階の企業活動を一括して捉える観点であるのに対して、『CDD in Japan & Made in the World』は『①日本はConceive・Design・Developという3段階の企業活動を第4段階のProduceと明確に区分する、②日本は世界のマーケットが求める新しいGSIのコンセプトを正確・敏速に捉え、使命感をもってコンセプトとテクノロジーを掛け合せて新しいGSIのプロトタイプを作り上げる、③さらにプロトタイプに『巧みの技』を加えて量産スペックを確定する、④コモディティープロダクツの生産・輸出は世界中で最適の地域に委ねる、⑤特許に基づくPatented Productsとノウハウに裏づけられたSpecialty Products および社会インフラとしてのトータルシステムを構成するグッズとシステムをわが国で生産し、輸出する』ということです。

 

 わが国からの輸出は、自動車やカメラなどの特許やノウハウに裏付けられた製品だけでなく、社会インフラとしてのトータルシステムとその維持管理、すなわち、新幹線の車両とその運行システム、あるいは、原子力発電を含む発送電システムなどハードを含めたトータルシステムとその維持管理のすべてを輸出するということであります。

 

3-3 『RH in Japan & Export to the World』 

  『CDD』というアルファベットが示す企業活動は天然に産しないマンメイドのGSIを創造する過程で行われますが、『RH=Raised & Harvestedは『自然によって生み出され、人の手で育成(Raise)・収穫(Harvest)されるナチュラルプロダクツの生産・加工活動の総称』であります。

 

 日本について言えば、四季のある日本固有の風土と伝統の中で『四季の移り変わりを捉える繊細な感性』と『タイミングを失うまいとする勤勉な労働』の中で行われるナチュラルプロダクツの生産の活動、すなわち、米・野菜・果物などの播種・育苗・収穫とその加工、畜産とその製品化、あるいは、近海漁業・遠洋漁業・栽培漁業の漁獲とその加工活動を簡潔に表現するものであります。

日本の風土の中で人々が生み出すナチュラルプロダクツは、四季の変化に恵まれた日本の類まれな風土と人々の労働から生まれているがゆえに、円レート上昇による生産の海外シフトは起ころうにも起こりえないという意味で『RH in Japan』であり、『 Export to the World』なのであります。『RH in Japan & Export to the World』の活動が世界に広まりつつある『冷凍・冷蔵 宅急便』によって支えられることは言うまでもありません。

 

 

4.地球温暖化と地震と津波のチャレンジへのレスポンス 

 『人類の歴史はペーパーマネーをことごとく紙屑化して来た』というチャレンジに成功裏にレスポンドすることによって、私たちは明治の開国以来欧米から学んだ科学技術の集積を一層進化させた姿・形で保持・発展させることが可能であるがゆえに、地球温暖化のチャレンジと1000年に1度の地震と津波のチャレンジに成功裏にレスポンドすることが可能であります。

 

 地球温暖化へのレスポンスについて、日本は、①20世紀後半の高度成長期に生じた河川や湖沼の見るも無残な汚染を見事に解決した実績を持っていること、②今回の震災と津波の後に生じた電力不足を節電によって克服した実績を持っていることによって例証できますが、最近の次の論考はその具体例であります。『90年代前半、工場の排ガスから硫黄を除去する脱硫プラントは世界で4000台稼働していた。そのうち3200台は日本で動いていたのだ。世界の5%のエネルギーしか消費しない国で80%の脱硫装置が動いていたのだから、日本は世界で最も真剣に脱硫を行なっていた国だと言ってよいであろう。もうひとつがエネルギー危機の克服である。73年と79年の2度にわたり石油危機が訪れた。それまで1バレル1ドルだった石油価格が、この間、10ドル、数十ドルと跳ね上がったのである。これは、安い石油に依存してきた先進国の経済、とくに石油をまったくと言ってよいほど産出しない日本経済を直撃した。日本の製造業はエネルギー効率を高めることで、危機を克服したばかりか国際競争力も高めて行ったのだ』(産経新聞平成23年9月6日 小宮山 宏 三菱総合研究所 理事長)。

 

 問題は、震災と津波の中で発生した原子力発電所の事故をきっかけに電力の安定供給への不安が高まっていることです。原発の事故はあってはならないことですが、事故を理由にした石油・石炭火力発電への逆戻り、あるいは、供給の安定性が確認されていない風力や太陽光発電への過度の依存は地球温暖化というチャレンジへのレスポンスの遅れと震災と津波というチャレンジへのレスポンス(=復興)を遅らせるだけであります。電力供給不安が円高による産業の海外移転を加速することもレスポンスを遅らせます。

 

 原発の事故はトータルシステム内部の構造的欠陥に由来する事故ではありません。想定を超える地震に耐え、正常に原子炉が停止した後の『全電源の喪失を想定しなかったこと』および『外部電源の接続プラグの不整合』を含めた運転上の人為的なミスによる事故であります。私たちは、『科学技術に対する注意深い楽観論』の立場に立って、原子力発電の安全性を再確認し、原子力発電設備を着実に稼動させて3つのチャレンジに同時にレスポンス出来るのであります。

 

 

5.21世紀の日本の進路は『触媒国家』

 3つのチャレンジに成功裏にレスポンスする過程で開けて来る21世紀の日本の進路は『触媒国家』であります。

 そのキーコンセプトは『AとBの2つの物質の反応を促進するがそれ自体は変質することなく存在し続ける白金触媒Cのごとく、太平洋(Pacific Ocean:平和の海)の東方に位置するマンメイドマネー時代の基軸通貨国アメリカという大陸国家と太平洋の西方に位置し、最大の人口と2兆ドルの外貨準備を擁する中国という大陸国家の間にあって、1兆ドルの外貨準備を保有する日本が両国の経済発展に貢献しつつ、日本の国と国民のアイデンティティーを白金のごとく明確に保ち続けること』であります。

 

 その触媒機能の根源は『コンセプト×テクノロジー=新しいGSI』という『マンメイドプロダクツの創造方程式』と『慈しみと感謝の気持ちを込めた労働から生まれるナチュラルプロダクツの世界最高の品質』によって担保されます。

21世紀に向けて日本の人口は減少します。しかし、四季が巡る中で、人々は『秋きぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる』(古今和歌集)という『見えないものごとを感知する伝来の感性』を持っています。

 

 マンメイドプロダクツについては、①『未だこの世に姿・形を現していないが故に未だ見えないけれどもこのようなGSIがあればよいという世界の人々のニーズ』をこの鋭敏な感性をもって世界のどの国の人々よりも素早く、鋭敏かつ正確に捉え、使命感をもってコンセプトにとりまとめ、②コンセプトにテクノロジーを掛け合せて新しいGSIのプロトタイプを作り上げ、③さらに『巧みの技』を加えて量産スペックを確定して、④コモディティープロダクツの量産と販売については世界で最も適した地域に委ね、⑤特許とノウハウに裏づけられた製品とその製品を組み込んだ社会インフラとしてのトータルシステムの生産は国内で行い、世界に輸出することであります。

 

 同時に、人々がコンセプトを抱く以前に姿・形が与えられているナチュラルプロダクツについては、日本固有の四季の移り変わりと風土の中で、タイミングを逃すことなく、『自然が生み出した動植物と対話するがごとく、慈しみと感謝の心を込めて行われる農業・畜産業・漁業の労働から生まれる世界最高級の米・野菜・果物・牛肉・刺身』などを情報化技術に支えられたコールドチェーンのデリバリーシステムによって世界各地に適時・的確に輸出することであります。

 

 触媒国家日本のスローガンは、『Conceived, Designed, Developed in Japan & Made in 

the World』と『Raised, Harvested in Japan & Export to the World』であります。ここで問われるのは日本がこの役割を果たすに当たって必要とされる資質を持つか否かであります。このCentral Questionへの回答は『Yes!』です。最後にそのための2つの条件を確認します。

 

 

6.『触媒国家日本』を支える『進取の気性』と『受容と適応の資質』

 第1の条件は、日本は、聖徳太子の時代から明治を経て今日まで、進取の気性をもって文字を中国から、宗教をインドと欧米から、社会制度を中国と欧米から、科学技術を欧米から学び、日本固有の気候・風土・社会にうまく適合するように『変容・変形』させながら『受容』して来ています。この『受容』の才覚は、情報化技術の利活用に見られるごとく、平成の今も変わるところがありません。

 

 第2の条件は、日本は、鉄鉱石・石炭・石油・天然ガスなどの資源に恵まれて来ませんでしたが、日本の自然が生み出すナチュラルプロダクツに加えて科学技術の応用によって世界が求めるマンメイドプロダクツを次々と生み出せる時代になっているので、日本にとって資源がないという不利な条件は『資源がないが故に変化への適応が容易である』という有利な条件に転換していることです。

 

 冒頭に述べた3つのチャレンジに成功裏にレスポンドして、人口が減少する21世紀を日本が生き抜くに当たって、どうしても必要な条件は、『四季の変化を鋭敏に捉える感性』、『感性が捉えたコンセプトに姿・形を与えるテクノロジー』と『移り変わる四季の中でタイミングを逃すことがないように協働する 和 の絆で結ばれた社会共同体』であります。

 

 日本に降り注ぐ太陽光線は白色であります。この白色は、白1色の白色ではなく、虹の7色の融合から生まれた白色であります。私たちは、プライベートな生活では、人間の思考をはるかに越えた自然の創造主への畏敬と感謝の念を7色の宗教に託しつつ、プライベートな世界から1歩パブリックの共同社会に出た後は、7色の宗教が一致して教える徳目に忠実に、『フォア ザ パブリック』を旗印に掲げて、『不偏・不党、7色の宗教の融合から生まれる白色の立場』で、まずは一番身近な共同社会のために、次いで日本という国のために、さらに世界のために触媒として働くのが『触媒国家日本と私たちの21世紀の進路』であります。(完)